信濃川大河津資料館
新潟自転車観光をご覧いただきありがとうございます。
アラサー自転車貧乏のプッチンチャップリンです。
今回ご紹介する信濃川大河津資料館ですが、小さいころから父親に連れられて何度も行った場所です。何度も見た展示の内容はだいたい覚えていますし、水害の恐ろしさをイメージできるようになりました。地元の歴史の勉強にもなりました。
インフラツーリズムという言葉も近年定着してきましたし、最近豪雨災害も多いですので、こういった場所に行くのもたまにはありかなと思います。(わざわざ自転車で行く必要はありませんが・・・)
さて、大河津資料館の場所はこちらです。
地図を見ていただくと、南から川が流れてきて、北西と東に川が分岐しているのがわかると思います。東側の流れが信濃川の本流で、北西方向の流れが人工的に造られた(大河津分水という)水路です。水路の長さはおよそ9kmにもなります。
大河津資料館の外観はこんな感じ。1・2階は、堰や洪水に関する資料の展示室、3階は資料室、4階は展望室になっています。
昔の信濃川は、たびたび洪水を起こしていたらしく、信濃川下流域はその被害に見舞われていました。
グラフの通り、水路が完成したことで、100年あたりの水害の回数が3分の1ほどに減少しています。
1896年に「横田切れ」と書いてありますが、この時は新潟市の方まで水につかったという記録が残っています。
横田は分岐点からおよそ5kmほど下流です。ここの堤防が決壊して大きな被害をもたらしました。
現在では、記念碑が建てられています。
そして、大河津分水の役割ですが、水量の変化に合わせて、水を信濃川下流に流したり、信濃川の流れを止めて海に流したりしています。
水路と2つの堰ができたおかげで、グラフにあるように、水害が防がれてきました。
しかしそれでも、信濃川下流域全体を含めて水害がゼロになったわけではありません。最近だと、平成16年新潟福島豪雨で、信濃川以外の川で堤防が決壊しています。
大河津分水の影響は、水害の減少だけではありません。信濃川下流域を米どころに変えました。
一番下の折れ線グラフを見ると、大河津分水通水後から米の収穫量は右肩上がりです。グラフの上の「田のようす」を見ていただくと、湿田から乾田に変化しているのがわかります。
展示されていた模型です。水路ができる前のこの地域の田んぼは、沼地のようになっていて、腰まで水に浸かってしまうため、田植えや稲刈りの際には船を利用していたそうです。
田植え
稲刈り
田んぼに入っての稲刈り
田んぼに埋まらないように、田下駄・田かんじきと呼ばれる道具が使われていたようです。
こんなことも書いてありました。
江戸時代から水路の必要性が唱えられ始めて、途中何度も工事は中断しましたが、大河津分水が完成したことで、越後平野は大きく変わりました。
と、こんな内容の展示が1階にあります。2階には、主に大河津分水の工事の歴史や様子についての展示があります。
定番の模型
「洗堰」(信濃川方向の堰)
「可動堰」(水路の方の堰)
展望階からの風景
水路の写真(奥は日本海方向)
橋のようなものが可動堰です。堤防から堤防までの幅は650mにも及ぶ広い水路です。
分岐点の写真
写真の奥が信濃川の上流方向、右側が水路方向、左側が信濃川の下流方向です。
洗堰(信濃川方向の堰)には、魚道観察室が設けられています。
中はこんな感じです。
動画を撮影してきました。残念ながら、建設されてからしばらく経っているので、ガラスが汚れていますが、かろうじて小魚が泳いでいる様子が見られます。
大河津分水路の堤防は、桜の名所でもありますので、ぜひとも春にお越しください。
現在、配布されている堰カードは3枚です。
今回も、ご覧いただきありがとうございました。